クリスマスメッセージ 「飼葉おけの中で」
                                            牧師 亀井 周二

「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージD」

<渡邊禎雄氏の版画について>

野田教会には礼拝堂、廊下、玄関、牧師室などに渡邊禎雄氏の版画が飾ってあり、教会の暦に合わせて作品が変わっていきます。これは牧師の私、亀井周二が個人的に収集した作品ですが、私個人だけでなく、教会員また教会に来られる皆さんに鑑賞して頂きたいと思って飾ってあります。

 これから、このホームページを通して教会で飾ったことのある渡邊禎雄氏の版画を紹介しながら、その版画の背後にある作者、渡邊氏の信仰又、聖書のメッセージについて分かりやすくお話ししたいと思っています。

 <聖書>ルカによる福音書 2章4〜14節  

 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリヤと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かした。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐るな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシヤである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14 「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 

 <日本の街の華やかさ> 

 ハロウィンが終わると街はクリスマスの美しく華やかな飾り付けがなされ寒い夜に人々の心を暖かくさせてくれます。それはキリスト教会よりも早くに。教会の暦はクリスマス(1225日)の4週前の日曜日からアドヴェント(待降節)に入り、クリスマス用の飾り付けがなされます。キリスト教国でない日本でも全国的に飾り付けがなされ、クリスマスセール、クリスマスケーキ、クリスマスパーティーが盛んに行われます。

<最初のクリスマス>

 しかし本当のクリスマス、聖書の中にある一番最初のクリスマスは華やかさ、賑やかさとは全く逆の静けさ、素朴さ、更に貧しさという言葉が当てはまるものでした。全世界のメシヤ(救い主)はどこに生まれたのでしょうか。新約聖書ルカ福音書2:7を見ますと家畜小屋の飼い葉桶の中です。何故、このような所で生まれたのでしょうか。聖書を読みますと旅先の郷里で宿屋がいっぱいで偶然に家畜小屋に泊まることになった、とあります。しかし、これは本当に偶然でしょうか。私たち人間には偶然と思えますが、そこには深い神のみ旨、ご計画があります。

<人の思いを越えた,神の御心、愛>

 神の御子、栄光ある王の王、全世界の救い主というお方ならば、常識的にはユダヤの国の王子として、王宮で暖かい暖炉のある部屋のふかふかの布団の中がふさわしいのかもしれません。事実、別のマタイ福音書を見ますと、メシヤの誕生を星で知らされた東方の博士(マギ)たちはまず、ヘロデ王の住む王宮に行ったのでした。しかし、神様はあえて家畜小屋の飼い葉桶の中にメシヤを誕生させたのです。しかもその父と母はダビデの血筋ではありましたが名もない、ごく普通の人でありました。
 もし、王子として王宮に生まれたのであれば、その誕生を祝ってその幼な子に会いに行き、直(じか)に見ることの出来るのは貴族や身分の高い特権階級の人たちだけです。彼らは汚れのない正装で近づいたことでしょう。
しかし、家畜小屋の飼い葉桶ならば、身分や社会的地位は関係なく、汚れた作業服でも、大人もこどもも、男も女も、誰もが近づけるのです。最初に幼な子イエス様に出会ったのは貧しい羊飼いです。更にもっと想像するならば、最初のクリスマスに母マリヤと父ヨセフを除いて、一番最初に御子に出会ったのは家畜小屋にいた動物たちです。
ここに人の思いを越えた,神の御心、愛があります。全ての人、全ての生き物が神の愛の中に招かれているのです。その事を示すために、偶然ではなく、神はあえて、神の御子、栄光あるメシヤ(救い主)をあのような貧しさ、低さの象徴である家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれさせたのです。

<きよしこの夜について>

 クリスマスに世界中でうたわれる讃美歌「きよしこの夜」が一番最初に歌われたのは立派なパイプオルガンやステンドグラスのある大きな有名な教会ではありません。以下は朝日新聞2012年12月22日(土)の「be」の記事の中からの引用です。
「オーストリアのオーベンドルフという町の小さな教会で(丁度野田教会のようです。)1818年のクリスマスイヴの朝、パイプオルガンのふいごの皮をネズミに囓られ使えなくなって急遽、助任司祭ヨセフ・モールが作詞し、オルガン奏者のフランツ・グルバーが慌ててギターの伴奏で歌えるクリスマスの賛美歌を作曲し、イヴの夜12人のこども達と共に歌ったのが最初である。歌はそれっきり忘れられ、細々とチロル民謡として伝わり、二人のことは36年後に分かった。グルーバーは生涯に訳90曲を作ったが知られているのはこの1曲だけ。助任司祭だったモールは無名で極貧の中で亡くなり、つぎだらけの服と祈祷書しか残さなかった。ただ魂を込めた歌は残った。」
最初のクリスマスと最初の「きよしこの夜」は、その素朴さ貧しさ低さにおいて共通しています。やはり、「きよしこの夜」は世界中の全ての人々がクリスマスを祝って歌うにふさわしい歌です。

<誕生後のイエス様の生涯>

イエス・キリストの貧しさ、低さは飼い葉桶の誕生だけではありません。その生涯を貫いています。本来ならば神の御子、全世界のメシヤ(救い主)として栄光と富を受け人々が仕える立場に有りながら、彼は逆に人々に仕え、受けることよりも与える事を喜びとし、愛に生き最後には愛に死なれました。十字架の死です。
イエス様は十字架上で「父よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ2334 と祈り、十字架で死なれました。無実の自分を十字架につけ、罵り、唾をかける者たちに対して「お赦し下さい。」と執り成しの祈りをされました。ここにイエス様の命をかけた敵をも隣人として愛する無償の愛、本当の愛を見ます。聖書はこの祈りの言葉に象徴されるように、イエス様の十字架は私たち全ての人間の罪に対する犠牲、贖いの業と見ます。わかり易く言うなら、神様の前で私たちの代わりに命をかけて「ごめんなさい」と言って下さったのです。十字架の上で、敵をも隣人とし愛していく、ここに憎しみを乗り越える愛と平和の源があります。あの飼い葉桶の貧しさ低さは十字架への道の出発点なのです。

<私たちの現実の世界>

私たちの現実の世界はイエス様の人生とは逆です。人は、創世記でアダムに助け手としてエバが与えられたように、本来助け合うべき存在として隣人を与えられています。しかし現実は逆で、互いに傷つけ合い憎み合っています。夫婦、親子という家庭の小さな世界においても、国と国、民族と民族そして日本と隣国でも、聖書と関係あるイスラエルとパレスチナ等アラブ諸国との関係でも、シリヤの内戦でも、私たちは身近に感じています。そのような争いにおいていつも苦しむのは、一般の市民、女やこどもなど社会的弱者たち、イエス様の言葉の<いと小さき者たち>です。

<闇の中に輝く光>

そのような暗い世にあってイエス・キリストの存在は真の光です。人と人、国と国がお互いに自己中心的になり、奪い合い、傷つけ合い、殺し合う中にあって、受けることより与えることを、仕えられることより仕えることを、愛されることより愛することを喜びとし、私たちの罪を赦すために十字架にかかられたのです。あの十字架上の「父よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」との祈りは時代を越えて、今日の私たちに対する執り成しの祈りです。
この愛の中で人は生かされ、平和が生まれるのです。神様は罪の闇の中から救うために御子を飼い葉桶の中で、私たちと同じごく普通の人、マリヤとヨセフの子として誕生させ、その愛を実践するために十字架にかけられました。この愛を知った時初めて、私たちは本当のクリスマスの喜びにあずかれるのです。その事を知る時に私たちはただ華やかで、賑やかで、楽しいだけのクリスマスは慎むべきだと思います。神様の前での悔い改めと感謝こそ本当のクリスマスを祝う心なのです。私たちも、たとえ小さく、又たどたどしい歩みであっても、このイエス様の愛と平和の道を歩んで行きたいと思います。