「復活の朝」
牧師 亀井 周二
「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージD」 | ||
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<渡邊禎雄氏の版画について> | ||
野田教会には礼拝堂、廊下、玄関、牧師室などに渡邊禎雄氏の版画が飾ってあり、教会の暦に合わせて作品が変わっていきます。これは牧師の私、亀井周二が個人的に収集した作品ですが、私個人だけでなく、教会員また教会に来られる皆さんに鑑賞して頂きたいと思って飾ってあります。 これから、このホームページを通して教会で飾ったことのある渡邊禎雄氏の版画を紹介しながら、その版画の背後にある作者、渡邊氏の信仰又、聖書のメッセージについて分かりやすくお話ししたいと思っています。 |
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「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージD」 「復活の朝」
牧師 亀井 周二 この版画は、作者の渡邊先生自身も気に入っていた版画です。生前、筆者がお宅を訪問した時、応接室に飾ってありました。先生は私に「三人の女性の中でマグダラのマリアはどれか分かりますか。」と言われました。「聖書を読み、よく見れば分かるよ」と。皆さんも、聖書を読んで考えてください。 <聖書>マルコによる福音書 16章1〜8節 福音書に於いて、当時の男性中心のユダヤ社会を反映してか、女性たちはあまり表舞台に出てきません。弟子団においても同じです。しかしイエス様の生涯の一番大事な時、十字架と復活の場面で女性たちは大活躍します。 イエス様が十字架上で悲惨な死を遂げる現場には、あの十二弟子たちは逃亡していていません。最後まで付いて行ったペテロも、大祭司の中庭で三度イエス様を否認しました。しかし、聖書は記します。「・・婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。・・」マルコ15:40,41 イエス様と弟子たちが宣教活動出来たのも、彼女たちが食事などの日常的な世話をしていたからです。教会は、原始教会から21世紀の今日に至るまで、女性たちが表舞台に出ないことが多いが、彼女たちに支えられて来ました。今日の教会においても、多くの教会で役員は男性の方が多いですが、会員数は女性の方が多いです。この現実、事実を一番良く知っているのは教職者です。(勿論、私もその一人)女性が教会を支えているのは数の多さだけではありません。その強さと行動力にあります。 イエス様が十字架上で悲惨な死を遂げられる時、彼女たちはその悲惨さ、残酷さの中にあっても勇気を持ってじっと見守りました。イエス様が葬られる時、「マグダラのマリアとヨセの母マリヤとは、イエス様の遺体を納めた場所を見つめていた。」彼女たちは悲しみ、絶望の中にあっても行動しました。そして「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」この「朝ごく早く」と「日が出るとすぐ」の言葉の中に彼女たちの切実な思いが込められています。彼女たちは多分、眠ることが出来ず、徹夜で朝を待ったのでしょう。しかし、冷静に見るならば彼女たちの行為は軽率、又無計画です。彼女たちは墓に急ぎながら「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と言います。朝早くに大きな石を転がしてくれる人などいるわけがありません。しかし、彼女たちは、ひと時でも早くイエス様のところに近づきたかった。彼女たちのこの軽率さ、無計画な行動は、信仰的にもピントがずれています。何故なら、イエス様はかつて、預言された通り、既に復活されて死体に油を塗る必要はなかったからです。しかし、彼女たちの行為、そのイエス様に対する情熱は、信仰にとって大切なものです。このような行為があったればこそ、イエス様の復活の喜びを、誰よりも早く知ることが出来たのです。 所詮、私たちの信仰の業は、軽率で無計画でずれています。それでも良いから私たちはイエス様を求めて走ります。イエス様は、そのような私たちの愚かさを愛し、受け止め、そして正して下さるのです。イエス様が十字架を予告された時、命をかけて守る、と言いつつも、三度もイエス様を知らない、と言って裏切ったペテロに対するように。 ところで、三人の女性の名を記す時、聖書はまずマグダラのマリヤを記します。そこには深い意味があります。マグダラのマリヤとは、一体どのような女性でしょうか。ルカ福音書8章2節によれば、イエス様によって七つの悪霊を追い出して頂いた、とあります。聖書で「七」は完全数を表わし、それはこの世のありとあらゆる悪霊に支配され苦しんでいたことを示します。彼女はイエス様との出会いによって悪霊から解放され、神を思う霊、聖霊に満たされる者へと変えられました。芥川龍之介は、小説「西方の人」の中で、二人の関係を「詩的恋愛」と表現しています。しかし、二人の関係はこの作家の表現よりも、男と女という性を超えた深い人格的、信仰的な信頼関係の様に思えます。彼女にとっては、生きる全てがイエス様にかかっていました。そのイエス様があのような悲惨な姿で十字架の死を遂げられた。「愛と正義の人イエス様が、あのような悪の支配の中で罵られ、侮辱を受け、死んだ。この世には真実、愛、正義などあるのだろうか。」と、彼女はこの世の全てに、そして自分に絶望しました。何故、復活の主イエスは、まず彼女にご自身を表わされたのか、それは、彼女が他の誰よりもイエス様を必要としていたからです。彼女は、イエス様なしでは生きられなかったからです。 私たちは本当にイエス様を必要としているでしょうか。復活の喜びの知らせは、イエス様がいてもいなくても自分の人生にはさほど影響はない、いたら良いが、何が何でも大きな犠牲を払ってまで、いて欲しいとは思わない、という人々には決してこの知らせは来ません。あのマグダラのマリヤの様に、イエス様が十字架の死で終わってしまったら、私は何を支えに生きていけばいいのか、とイエス様を愛するが故の深い悲しみ、絶望の中にある人に、復活の喜びはやって来ます。 マグダラのマリヤとイエス様の出会いの中に「多くを赦されたものが多くを愛する」との言葉の心理を思います。 <答え> 版画の中で、マグダラのマリヤは真ん中の一番、髪の長い女性です。ヨハネ福音書12:3によると、高価なナルドの香油を「イエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐった。」とあります。マリヤのイエスに対する信頼と愛の深さが現れています。
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