「シカルの井戸辺で」 
                                            牧師 亀井 周二

「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージC」

<渡邊禎雄氏の版画について>

野田教会には礼拝堂、廊下、玄関、牧師室などに渡邊禎雄氏の版画が飾ってあり、教会の暦に合わせて作品が変わっていきます。これは牧師の私、亀井周二が個人的に収集した作品ですが、私個人だけでなく、教会員また教会に来られる皆さんに鑑賞して頂きたいと思って飾ってあります。

 これから、このホームページを通して教会で飾ったことのある渡邊禎雄氏の版画を紹介しながら、その版画の背後にある作者、渡邊氏の信仰又、聖書のメッセージについて分かりやすくお話ししたいと思っています。



「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージC」

「シカルの井戸辺で」                               牧師 亀井 周二

<聖書>
 ヨハネによる福音書 4章 1〜30節 
 1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
2――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると
17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

<渡邊先生最後の作品>
  ここに一枚の版画があります。この版画は1996年1月に渡邊禎雄先生が亡くなられる前の最後の遺作とも言うべき2枚の版画の1枚です。ですからサインも入っていません。2枚の内の
1枚は最後の晩餐で新教出版のカレンダーにもなりました。もう一つがこのシカルの井戸辺でのイエス様と一人の女性との対話の場面です。

<のどかさの背景にある不自然さ>
 4章7節からイエス様とサマリヤの女性との対話の場面が始まります。私たちにとって、この場面は一見シカルの井戸辺の昼ののどかな風景に思えますが、その外面に反してこの出会いには極めて不自然な事があります。
@、まず、見知らぬ男、つまりイエス様が女性に話しかけるー当時はあり得ないことでした。
A、ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけるー彼らは歴史的には兄弟でありましたが、当時は敵対関係にありました。
B、昼の12時、暑い盛りに女性が水を汲みに来るー普通は朝か夕方の涼しい時に来ました。
 なぜ、彼女はみんなが来ない、暑い正午に来たのか、明らかに人目を避けた行動です。なぜ
人目を避けたのでしょうか。それは18節「あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているの
は夫ではない。」の言葉が示しています。
 彼女は、そのような人生の中で心の渇きを覚えていたようです。心の安らぎ、罪からの救いを
求めていました。何人男性をかえても満たされない、丁度、旧約ホセア書のホセアの妻ゴメルの
ように。イエス様はそれに徐々に答えて行かれます。
<イエス様の対話の素晴らしさについて>
 このシカルの井戸辺でのイエス様とサマリヤの女性との対話は、実に興味深い対話です。
イエス様はいきなり彼女の問題点、彼女の罪について指摘したり裁いたりしません。このサマリ
ヤの女性は、水を汲みに来ました。イエス様はその彼女にとって具体的に問題となっている水を
題材として、彼女と対話して行きます。そして、彼女のかたくなな心を徐々に開き、救いに導いて
行かれます。
 7節ではイエス様の方から「水を飲ませて下さい。」と言われています。本来ならば、渇くことの
ない命の水を与えるお方が私たちと同じように肉体の渇きを持つ者として、「水を飲ませて下さ
い」と彼女に接するのです。そして、このことは彼女に奉仕する場をも与えることになります。
 お前はどうしようもない罪人だ!と言うのではなく、あなたも水を与えて私を助けることが出来
る、と彼女に自信を、自分を肯定する思いを与えておられます。そのことを知らせるために「水を
飲ませて下さい」と語りかけられ、対話を更に肉体的、物質的に渇きを潤す水から、心の渇きを
潤す命の水へと展開して深めて行かれます。
<愛の中の逆転>
そしてこの女性が「その水をください。」と求めた時、いつの間にか与える者と受ける者とが逆
転しています。ここで初めて、この女性の持つ罪にイエス様は触れられています。それは、膿を
出す為にはどんなに痛くても切開手術をしなければならないのと同じです。女性は、イエス様の
深い洞察力に19節「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言っています。そして次の
節で女性の方から礼拝について言っています。この女性は罪の中に生きてはいても、聖なるも
のを求める心を失ってはいませんでした。罪の中に生きていただけに、普通の人よりも余計に、
聖なる者に対する憧れがあったのでしょうか。そしてイエス様は、「水を下さい」と言った自分自
身が命の水を与える者であること、キリスト、メシヤであることを示されます。
 サマリヤの女性を、彼女の身近な話題からだんだん引き上げ、命の水、救いにまで引き上げ
て行かれるイエス様の対話の仕方は素晴らしいと思います。それは技術、話術、テクニックの
素晴らしさではなく、彼女に対する深い愛から生まれたものであると思います。水を汲みに来た
だけの彼女が心の奥底で渇き、望んでいた命の水を与えられたのです。この対話を見ていて、
イエス様が素晴らしい魂のカウンセラーであることが分かります。ともすれば私たち、特に牧師
はすぐ自分の話したいことを話してしまいます。まず、相手の心、状況を聞き知ることから始めな
くてはならないと反省させられます。
<さなぎから蝶への脱皮>
 さて28、29節「女は水がめをそこに置いたまま・・・さあ、見に来てください。・・」ここにイエス様と
出会い命の水を飲んだ、一人の女性の姿が生き生きと描かれています。彼女はイエス様に出
会い命の水を飲んだ喜びのあまり、人目を避けようとして真昼間に井戸にやってきていたことを
忘れていました。そんなことより大切なものを彼女は得たのです。彼女は、自分の恥をさらして
でも人々にイエス様のことを知らせたかったのです。彼女の言う29節の「私が・・すべてを」には
自分の心の奥深くにある苦しみ、悲しみ、空しさ、渇きを分かり、受け止め、一人の人間として一
人の女として受容してくれたイエス様への思いが込められているように思えます。
 これから彼女は今までとは違った歩みを始めることでしょう。自分の感情のままに欲望のまま
に生き、自分や他者を傷つけていくのではなく、神の愛の中でもっと自分を大切にし、同時に他
者も大切にして生きて行くのです。ある人はこの彼女の変化を蝶にたとえています。置き忘れら
れた水がめは脱皮したばかりのさなぎの抜け殻です。飛びたった蝶を見送るイエス様の目には
慈しみが溢れていました
<湧き出る命の水>
 ところで私たちはイエス様と本質的に異なる一人の罪人です。弱さ、欠けを持っています。周り
の人に水を与えることなど出来ません。私たち自らが、このサマリヤの女性のように渇きを覚え
る存在です。本物を求めれば求めるほど、同僚との間で、家族の間で、教会の中でも空しさ、渇
きを覚えます。まず私たちがイエス様に「命の水をください」と叫ぶ者です。
まず、私たちはみんな、イエス様から命の水をもらわないと生きていけない者である事を覚え
たいと思います。そしてその水を周りの人にも分け与える者でありたいと願います。イエス様の命の水は汲めば汲むほど出てくるものです。ここに伝道の原点があります。
 私は一人の牧師として、夫として、父親として教会員と共に、イエス様の前で「命の水をください」と叫びます。毎週,そんな思いで礼拝を守っています。
 私たちは共にイエス様が下さる命の水を飲んで、生き生きと信仰の道を歩んで行きたいと思います。