「洗足」 牧師 亀井 周二
ルカによる福音書 1章 39〜45節
「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージ@」 |
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<渡邊禎雄氏の版画について> | |
野田教会には礼拝堂、廊下、玄関、牧師室などに渡邊禎雄氏の版画が飾ってあり、教会の暦に合わせて作品が変わっていきます。これは牧師の私、亀井周二が個人的に収集した作品ですが、私個人だけでなく、教会員また教会に来られる皆さんに鑑賞して頂きたいと思って飾ってあります。 これから、このホームページを通して教会で飾ったことのある渡邊禎雄氏の版画を紹介しながら、その版画の背後にある作者、渡邊氏の信仰又、聖書のメッセージについて分かりやすくお話ししたいと思っています。 |
野田教会には礼拝堂、廊下、玄関、牧師室などに渡邊禎雄氏の版画が飾ってあり、教会の暦に合わせて作品が変わっていきます。これは牧師の私、亀井周二が個人的に収集した作品ですが、私個人だけでなく、教会員また教会に来られる皆さんに鑑賞して頂きたいと思って飾ってあります。
これから、このホームページを通して教会で飾ったことのある渡邊禎雄氏の版画を紹介しながら、その版画の背後にある作者、渡邊氏の信仰又、聖書のメッセージについて分かりやすくお話ししたいと思っています。
<洗足>
渡邊先生の版画の中で一番好きなのがこの「洗足」です。礼拝堂や廊下の版画は教会暦に従い変わりますが、この「洗足」だけは牧師室でいつも一番観やすい所に飾ってあります。きっと、牧師を隠退するまで飾り続けるのでは、と思っています。何故なら、牧師として生きていく上での一番大切な姿勢がここにあると思うからです。
長年(もう35年になります。)伝道、牧会をしていて、いろんな問題にぶつかり、悩んだり苦しんだりし、自分の弱さ、罪深さを知らされた時、この洗足を観ながら、元となっているヨハネによる福音書13章の洗足の出来事を思い起こし、悔い改めと感謝、赦しと励ましを受けるからです。
実は、この「洗足」のテーマは渡邊先生自身も大好きで、大きな作品からカットのような小さな物まで、数多く作品にしておられます。
<聖書>
ヨハネによる福音書 13章 1〜15節
1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子た
ちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言 われたのである。
12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなけれ ばならない。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
<イエス様の孤独>
十字架を前にしてイエス様は孤独であられました。ご自分の死を覚悟して緊張の時を迎えておられる一方で、弟子たちは「誰が一番偉いのか」と争っていたことがマルコ福音書10章35節以下に書かれています。しかし、そのような弟子たちをイエス様は「この上なく愛し抜かれた」と、聖書は表現しています。弟子たちの逃亡を知りつつも愛し抜かれる、イエス様の愛の深さに感動を覚えます。
ピント外れの弟子たちに対して、イエス様は言葉ではなく、生涯忘れることの出来ない一つの業でご自分の死の意味と信仰者の姿を示されます。
<洗足、それは罪の赦し>
最後の晩餐の時、イエス様は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、水をたらいに入れ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められました。弟子たちは驚き、ペテロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。当時、洗足は僕の仕事であり、しかもユダヤ人の僕ではなく、異邦人の僕の仕事でした。それを師でありメシアであるイエス様がされるのですから、ペテロの言うのは当然でした。それに対してイエス様は「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられます。この不思議な言葉の意味は何でしょう。洗足、それは汚れ、罪を洗い流すことであり、これから起こる十字架の死による罪の赦しを示します。
イエス様は、ペテロがどんなに自分(イエス様)を情熱を持って愛し身近にいてもこの洗足(罪の赦し)を受けないならば、自分と何の関係もなくなってしまうと言われます。私たちから見ればオーバーで極端な言葉と思われますが、それが、イエス様の考えられる信仰です。
どんなに長く教会生活を続け、聖書を読んで、見た目には立派な信仰生活をしていても、イエス様の十字架上の罪の赦し、それも観念的、抽象的に頭の中で考えるのではなくて「この私の罪が、イエス様の十字架の死によって赦されている、イエス様の十字架の死は私のためであった」という主体的、体験的な信仰告白がなければ、イエス様と何の関わりもないことになります。それは、信仰ではないのです。そのことは、十字架を前にしてペテロを始め、弟子たちが皆、逃げ去った事実が証明します。彼らのイエス様に対する人間的な愛は、十字架、といういざという時、もろく崩れ去るのです。イエス様との関係を自ら切ってしまうのです。
イエス様はそのような弟子たちの裏切り、逃亡を知りつつ、いや、知っていたからこそ、洗足を行われ「洗わないなら、何の関わりもないことになる」と言われたのです。
信仰は、人間の側の情熱とか愛の業ではなく、神さま側からの救い、恵みの業なのです。ですから「私の足など決して洗わないでください」という人間的常識、謙遜さは不信仰な言葉となってしまうのです。私たちはしばしば、教会の中においても、イエス様の前においても、この世的な常識を重んじ過ぎ、大切なイエス様との関わりを失ってはいないでしょうか。全ての人が、イエス様から足を、罪の汚れを洗って頂かなければならないのです。
イエス様は洗足の後、弟子たちに「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と言われます。教会の交わりの原点は、この罪赦された者同士の赦し合い、足の洗い合いです。そのことを私たちは礼拝の聖餐式の中で、キリストの肉と血を象徴的に示す、パンとぶどう酒を共に頂く中で実感するのです。
<批判と悪口について>
ところで、この洗足から日常生活の中での批判と悪口の違いについて考えさせられます。その人を反省させ、成長させる批判と、その人を腹立たせるだけの悪口との違いは、表面上の言葉の問題ではなく、内面、心の問題です。
私たちは、同じ言葉で言われたとしても「あの人から言われたのなら、素直に『そうね』とその言葉を受け入れ、反省出来るのに、あの人に言われると何故か、腹が立って『うるさい!』と叫び、聞き入れたくなくなる」そんなことがないでしょうか。それは、言葉の問題ではなく、相手との関係の問題です。両者の間に愛が、今日の聖書の言葉で言うならば、足を洗い合う、赦し合う心があるかどうかです。もし、私が失敗しても、あの人はきっと私の失敗を助けてくれる、自分の身が汚れても、私の汚れを拭き取ってくれる、という洗足(赦し合う)の関係がある時は、その言葉は人に反省と成長を促す批判となり、逆にそれがないと腹立たしさを与えるだけで、両者の関係をさらに悪くする悪口にしかならないのです。どんなに正しくても愛のない正義は、人を生かさないのです。
<人は赦されて生きる>
私たちは隣人に対して悪口ではなく、批判をする者になりたいと思います。そのためには、私たち自身がまず、イエス様の十字架の命をかけた大きな赦しの中で生かされていることを忘れてはならないのです。
多くを赦された者が多くを愛し、赦すことが出来るのです。マタイ福音書18章23節以下のイエス様の語るタラントンの譬えから知らされることは、私たちは一万タラントンという大きな赦しをイエス様から受けている、ということです。この事を知るときに、隣人の百デナリオンという小さな汚れ、失敗を洗い、赦すことが出来るのです。
教会の交わりの中で、家庭、職場、近所など日常生活の様々な隣人との交わりの中で、イエス様の「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。」との御言葉を実現して行きたいと思います。何故なら、人は裁きではなく赦されて生きる者だからです。