牧師 亀井 周二
3 心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
新約聖書には四つの福音書があり、マタイ福音書の山上の説教と言われる中の幸いの教えの最初に「心の貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである。」マタイ5:3とあります。一方、ルカ福音書の平地の説教と言われるところには「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである。」とあります。
「心の貧しい」と「貧しい」、一体どちらが実際イエス様の語られた言葉なのか、削る可能性よりも加える可能性の方が高い、だからルカの方が・・・と聖書学の世界ではいろいろ論議されます。しかし、私は30年余、牧師をしてきて、今は「心の貧しい人々」も「貧しい人々」もどちらもイエス様の真実な言葉と思っています。
マタイにおいてイエス様は群集に話しておられますが、直接的には5:1〜2で「弟子たちが近くに寄ってきた。そこでイエスは口を開き教えられた。」とありますように、まず弟子たちに語られたのです。弟子たちはイエス様の召しにより、大切な仕事道具も網も船も父も捨ててイエス様に従って来ました。つまり<貧しい人々>だったのです。ご自分のために全てを捨てて貧しくなった弟子たちに対して、まず「幸いだ、天の国はあなたたちのものだ」と語られたのです。
<貧しさの中での二つのタイプ>
しかし、貧しい人々が即そのまま幸いとなるのでしょうか。ここで貧しさについて考えてみたいと思います。
貧しさの中で生きている人々には二つのタイプがあります。一つは、物質的な貧しさがマタイの言う「心の貧しさ」につながっていくタイプと、逆に貧しさが心の富、正しく言うならば高ぶり、傲慢になっていくタイプです。
前者は、貧しさの中で自分の内には何ら誇るべき、頼るべきものが何もなく、神様に頼って生きていくしかないと神様に近づいていくタイプです。
後者は、物質的な貧しさの中で「何で自分だけが貧しく惨めなんだ、社会がこの世が悪い。神がこの世界を造ったのだとしたら、こんなのはおかしい。神なんているもんか。」と心が高ぶり神様からどんどん離れていくタイプです。
物質的に貧しいことが即幸いである、とは言えないのが私たちの生きている現実です。
<貧しさの中での醜さ>
人は貧しさの中でますます醜くなっていきます。ある時、テレビのアフリカの難民キャンプで救援物資を配る場面で、大人の男性がこどもや婦人たちを押しのけて食糧を取る、中には婦人やこどもの持っているものを力ずくで奪っている姿は醜いものでした。もっと驚いたのは北朝鮮の映像でした。冬、飢えて動けなくなって広場で倒れている男の子を椅子代わりにして腰掛け,何かを食べているこどもの姿です。人は,貧しさ、飢えの中で人間らしさを失い,醜くなって行くことも多いし、貧しさが即幸せにつながるものではありません。
そのようなことを考えると「貧しさ」が「心の貧しさ」へとつながらないと真の幸せ、天国には入れないのです。私たちはマタイの「心の貧しい者は幸いである」とルカの「貧しい者は幸いである」との二つのみ言葉を重ねて読むとき,イエス様のみ心を理解することが出来るのです。
<心の貧しさとは>
それは、人間性が貧しい、人格的でない、教養がないという意味の貧しさではありません。それは、自分の内に何か誇るべきもの、富むものを持っていない状態、謙遜さよりもっと魂の打ち砕かれた状態、聖なる、全知全能の神様の前で、自分には誇るべきもの自己主張すべきものを全く持っていない、という自己認識、全てを神様にゆだねて生きていくという心の貧しさです。
<ドストエフスキー『罪と罰』から>
このマタイ5:3が示す「心の貧しさ」を持つ典型的な姿を、あのドストエフスキーの小説『罪と罰』の中の一人の女性、ソーニャの中に見いだします。
ソーニャは貧しさの中で家族を養うために、売春婦になって家計を助けます。飲んだくれの父親は酒場で、自分はダメだが彼女こそ天国に行けるのだ、と語ります。彼女にはこの世に頼るべき、誇るべきものが物質的にも精神的にも何もありません。今も、世界のあちこちにソーニャのような境遇の女性はいると思われますが・・・
そして、彼女はその「貧しさ」「心の貧しさ」の中で神様を信じイエス様と出会い、『罪と罰』の主人公ラスコリーニコフにもイエス様の愛を分け与えるのです。
貧しい学生ラスコリーニコフはソーニャとは逆で、その貧しさの中で世間を恨み、だんだん神様から離れ、ナポレオンの論理を考えます。ナポレオンの論理とは、簡単に言えば「ナポレオンは多少の人を殺したとしても、大きな目的を達成した英雄として崇められる。
大きな目的のためには、小さな人間の命は犠牲にしてもいい」との論理です。そして彼は金貸しの老婆殺害の計画をたてます。彼の論理からすれば、金貸しの老婆は貧しい人々から容赦なく金を取り立てる。彼女にはこの社会に存在する価値はない。そんな彼女を殺しても罪はない。・・・と考えついにそれを実行してしまうのです。
しかし、実行したその後で、彼は罪意識から逃れられず悩み、自分を失い,絶望し、そんな中でソーニャと出会います。
この小説の中で最も感動する場面は,二人、つまり一人の殺人者と一人の売春婦、正にこの世の貧しさと汚れの真っ只中にある二人が、ヨハネ福音書11:28〜のラザロの復活の所を一緒に読む場面です。殺人者と売春婦、この世において何の救いもない彼らが、その心の貧しさの中で神様の愛と憐れみだけを頼りに必死で救いを求め、ラザロと同じようにイエス様の愛と力によって,死から復活したいと祈るのです。
ソーニャはラスコリーニコフがシベリアに流刑された後を追っていきます。彼らはラザロのように、死の絶望から復活して行くのです。
<聖書の中で>
所で、新約聖書の中の福音書を読んでみると、イエス様と出会い救いにあずかった人たちは、みなこの「心の貧しさ」を持った人ばかりです。
・ 人々からローマ帝国の手先、売国奴と呼ばれていた徴税人は、胸を打ちながら「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。(ルカ18:13〜)
・ 中風の僕の癒しを求めて来た百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎え出来るような者ではありません。ただ一言おっしゃって下さい。」と言いました。
(マタイ8:8〜)
・ 娘を救いたい一心で、フェニキアの女性はユダヤ人との人種的差別を越え、自分を子犬になぞらえながら「主よ、しかし子犬も食卓の下のパンくずは頂きます。」と主の救いを求めました。(マルコ7:24〜)
又、旧約聖書で最も有名なダビデも、王でありながら預言者ナタンから自分の罪を厳
しく審かれた時、王という立場に固執せず、一人の罪人として深く悔い改めました。詩編51篇で「神よ、私を憐れんで下さい。・・・背きの罪をぬぐって下さい。・・・(詩51:3)」「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。(詩51:9)」
新約聖書で多くの手紙を書いている使徒パウロも、神の前における自分の弱さ、罪深さを知り、「私は何と惨めな人間でしょうか。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ人への手紙7:24)」と言っています。
ダビデは、イスラエル国旗の真ん中にダビデの星が付けられ、イスラエル歴史上最も偉大な王と尊敬されています。パウロは、キリスト教の歴史上最も偉大な使徒、殉教者、神学者と尊敬されています。しかし、当の本人たちは、神様の前に何ら誇るべきもののない一人の罪人でしかないことを自覚し、ただ神様の憐れみの中で生きて行く「心の貧しさ」を持ち続けていました。
<キリストの貧しさの中で>
今まで、<貧しさ><心の貧しさ>について聖書又、ドストエフスキーの小説「罪と罰」から考えてきましたが、<心の貧しい人は幸いである>との言葉をこの言葉を語られたイエス様ご自身と結びつけて考えてみたいと思います。
イエス様の生涯を見つめてみるならば、イエス様ほど貧しい人はいなかった、イエス・キリストの生涯こそ貧しさの極みではなかったかと思うのです。栄光ある神の一人子でありながらナザレの大工の息子として、家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれ、神と人を愛し、仕え、何の罪もないのに十字架上で一人の死刑囚として処刑されたのです。その頭を飾ったのは黄金の冠ではなく、茨の冠でした。
パウロは「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。(第2コリント2:9)」と語ります。
<貧しさ>また<心の貧しさ>そのものは、そのままではやはりマイナスです。問題はその<貧しさ><心の貧しさ>が何と結びつき、誰によって受け止められるかです。私たちの貧しさ、罪がイエス・キリストの十字架の貧しさと結びつくこと、私たちの貧しさ、弱さ、罪がイエス・キリストの十字架の死という貧しさの中で受け入れられ、罪赦され、復活の力、希望へと豊かにされていく時に、心の貧しい者は幸いであると言えるのです。
<再び「罪と罰」から>
ソーニャとラスコリーニコフ、方や売春婦、方や殺人犯、共に物質的にも精神的にも何ら誇るべきものを持たない<貧しさ><心の貧しさ>の只中にいる二人です。この二人が、ヨハネ福音書のラザロの復活の箇所を読んだ時、彼らの貧しさがイエス・キリストの貧しさと結びついて、彼らは十字架による罪の赦しと死をも越える復活の希望の光の中で豊かにされ、生きる者とされたのです。目の前にどんな苦しみがあろうと彼らは絶望しません。
私たちも<貧しさ><心の貧しさ>の中でイエス様の貧しさと出会い、イエス・キリストの十字架の愛と復活の希望の中で、豊かに生きる者でありたいです。
(6月伝道礼拝説教から)