牧師 亀井 周二
ヨハネによる福音書 8章 1〜11節
1 イエスはオリーブ山へ行かれた。 3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
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今日の聖書の箇所は、私の大好きな聖書の中の一つです。そこには、一人の女性とイエス様との真実な出会いがあります。
しかし、今日の聖書の箇所は、聖書学的には問題の箇所でもあります。本来はヨハネ福音書のものではなく、別の資料つまり伝承による加筆、と言われる部分です。しかし、ヨハネ福音書本来のものではなくても、ヨハネ福音書を編集した者がどうしても加筆したくなる程、素晴らしい内容なのだ、と私は積極的に受け止めたいと思います。
内村鑑三も、この部分について「この一編のごとき、これを全福音書の縮写として見ることが出来る。もしこの編だけが残っていたとしても、イエスの感化は永久に消えない。」と言っています。
この出来事は、イエス様の受難のすぐ前の出来事です。イエス様と、ユダヤ教の指導的立場にあった律法学者やファリサイ人たちとの対立が、ますます激しくなってきた時です。彼らは、自分たちの不正、偽善性を批判するイエス様を邪魔だと攻撃し、逮捕しようと狙っていたのです。
ここで、彼らは姦通、今日的言葉を使うなら不倫の現場で捕まえた女性を、一つの道具として、律法問題でイエス様を試し、訴えようとしていました。なぜ、罪を犯した一方の男性が連れてこられなかったのかは明らかではありません。男性だけはすばしこく逃げたのでしょうか。それとも、一緒に捕らえられたのではあるが、見せ物としては女性の方が効果的だったのでしょうか。
姦淫の現行犯で捕らえられ、公衆の面前でさらし者にされる。人間としてこれ程恥ずかしいことがあるでしょうか。しかし、彼らはそのような女性の気持ち、立場を全く無視して、イエス様を窮地に陥れるかっこうの材料、道具として無理矢理引きずってきたのです。
モーセの律法つまり、旧約聖書は姦淫に対して非常に厳しく、死刑を定めていました。(レビ記20章10節、申命記22章22〜24節)当時の死刑は石打の刑でした。ここでイエス様が憐れみ深い愛の人で、罪人の友となっていることを知っていた彼らは、イエス様がこの女性を死刑にすることに反対する、と思っていたのでありましょう。もしそうならば、イエス様は律法に公然と反対したことになり、不義に対して目をつむり、悪を容認するものであることになるわけです。そして、律法学者、ファリサイ人たちはイエス様を律法を破った者として、宗教裁判にかけることが出来ました。一方、律法に従って女を石打の刑に処すべきだ、と答えれば、彼らが「イエスは愛の人ではない」と民に言いふらし、イエス様は民から「愛と憐れみの人」という評価を失ってしまい、民はイエスから離れてしまう。つまり、ここでイエス様はどちらに転んでも告発される立場にあったのです。律法学者、ファリサイ人は、実に巧みに罠を作ったのです。
それに対するイエス様の態度はどのようであったでしょうか。「6節イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」なぜ、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書いていられたのでしょうか。ちょっと理解に苦しむ態度です。そのような思いは、私たちだけでなく律法学者、ファリサイ人たちがまず感じました。そして7節を見ると、彼らはイエス様に何か言わせようと、しつこく「問い続けた」とあります。なぜイエス様は黙って地面にものを書き続けられたのでしょうか。
この箇所は、いろいろな解釈がされていますが、その中の一つに、「彼は顔を伏せて、指で地面に彼らを断罪する言葉を書いた。彼らは、地面に自分たちのいくつかの罪が書かれているのを見た」つまり、イエス様は、この女を責めているその当事者たちの罪を地面に書き付けた、というのです。以上のように、その時のイエス様の気持ちを探ろうといろいろな解釈がありますが、どちらにしても、イエス様は彼らに面と向かってすぐには答えられません。そこで、彼らはますます執拗にイエス様に問い続け、ついにイエス様は身を起こして彼らに答えられます。しかし、その答えは全く彼らの想像を越えるものでした。7節後半「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
ここで、具体的に問題となっているのは姦淫の罪ということですが、それは果たしてこの女性のような特別の者だけの罪でしょうか。そのような罪は、ここで女性の罪を問うパリサイ人たち、そして私たちとは無関係な罪なのでしょうか。私たちは、ここであの有名な山上の説教の中の一言を思い出します。マタイ5:27〜28 「27あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」イエス様にとって姦淫の罪は、単なる外側の問題だけではなく、心の内側まで問われるのです。
ところで、皆さんの中には、姦淫とか不倫とか、男女の関係について、教会の中で、しかも礼拝の中で語るのはあまりふさわしくない、と思われる方がおられるかも知れませんが、旧約聖書においては、しばしば神様から離れ、偶像礼拝に走った民のことを姦淫の女性に譬えています。最も有名なのはホセア書です。預言者ホセアは、自分の妻の不貞の姿、自分を捨て男から男に渡り歩く自分の妻の姿の中に、神から離れ、偶像礼拝に走るイスラエルの民の姿を見たのです。
不倫、それは人と人との間、男と女との間での人間性というか、人格的なものを無視し、傷つけるものです。相手だけでなく自分自身も。男と女とは、一対一の対等な関係の中での人格的な交わりです。そのことは、神と人との関係においても同じです。真の唯一の神から離れ、あっちの神、こっちの神へと自分の都合の良いように利用するのは、神様に対して不貞を働いていることと同じです。安産祈願、出産後の七五三は神社で、結婚式は雰囲気もモダンな教会で、でも葬式はやっぱり先祖代々の仏教で。これは最近の日本の姿です。しかし、このようなあり方が本当の信仰でしょうか。利用しているだけで、本当に神様を愛する人格的な交わりはありません。男と女の関係も、神と人との関係も、そこに愛と真実を求める、人格的なものを求めるならば一対一が基本です。 「姦淫」の罪は私たちには関係ありません、とは決して言えないのです。
聖書に戻りまして7節後半「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とイエス様は語られます。この言葉でもって状況は全く逆転するのです。律法学者やファリサイ人たちは一瞬のうちに原告から被告に変わります。このイエス様の言葉の背後には「罪人、一体それは誰なのか。神の子である私を神の子として認めず、否、認めようとしないどころか殺そうとし、そのために一人の女性を単なる道具として、さらし者としている、あなた方こそ罪人ではないのか。」との叫びがあったのではないでしょうか。ヨハネの手紙T1:10には「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」という言葉を思い出します。またイエス様はヨハネ伝9:41で「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われます。
9節を読みますと、年寄りは長い人生経験から他の人より早くイエス様の言葉の真意を理解したのでしょう。彼らはイエス様の言葉によって、真の被告、罪人が女でも、ましてイエス様でもなくて自分自身であることを悟りました。群集は年寄りから、律法学者、ファリサイ人も皆この場から姿を消していきました。
全ての者が姿を消していった後に、罪の女だけが一人ポツンと残っています。何故、彼女は逃げないのでしょうか。彼女は自由です。もう誰もいません。しかし、何故か彼女はこの場から立ち去ろうとしません。彼女は、律法学者、ファリサイ人たちに引きずられて泥まみれのままでイエス様のもとに留まります。そのような女性に対して、イエス様は身を起こし10節「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問われます。彼女は11節「誰も」と答えます。そこでイエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
と、唯一、罪がなく彼女を審くことの出来るお方が審かない、罪に定めないと言われるのです。
イエス様の罪の赦しの言葉は、決して女性の罪に対する妥協の言葉ではないことを知らねばなりません。イエス様は愛のお方であると同時にあくまで義にして聖なるお方です。もし、これが罪に対する妥協の言葉であったら、それは女性にとって真の慰めにはなりません。このイエス様の赦しの言葉が罪に対する真実の解決になり、彼女にとって真の救いとなるためには、この女性が犯した罪に対するふさわしい償いが支払われなければなりません。肉が裂かれ血が流されるということがどこかで起こらなければならないのです。
実際に肉は裂かれ血は流されました。しかし、それはこの罪の女性の身の上においてではなく、彼女とここで向き合って立っている罪なき神のひとり子、イエス様の身の上において起こったのです。それは、言うまでもなく、ゴルゴタでの十字架の出来事です。
もちろん、イエス様はまだこの時、十字架についてはいません。しかし、彼は私たち全ての者の犯した罪のために、そしてこの女性の犯した罪のためにも、十字架に於いて命を捨てられ、この罪の赦しの言葉を語るのです。従って、今ここに向き合っている二人の間には不思議な交換が行われているのです。ある人の表現を使えば「正しさ、聖さという光り輝く衣が女の上に掛けられ、女の着ている罪に汚れた泥まみれの着物がイエスに掛けられる。」と。
それは決して女の罪が大目に見られてイエス様の義と聖が放棄されたのではありません。ただ、イエス様は女の罪をご自身の身に負うという仕方で、その義と聖を貫徹するのです。ここに正義と愛が一つとなるのです。どんな罪をも見逃さず罪とする義しさ(ただしさ)聖さと、どんな罪深い者をも赦す愛の深さ、というこの一見矛盾するようにも思える神の義と神の愛の接点、一致点が他ならぬ主イエスの十字架の死なのです。イエス様はそのような十字架上での、全人類の罪に対する身代わりの死、という出来事をバックにしながら「私はあなたを罪に定めない。」と語られるのです。それ以後のこの女性の動向について、聖書は何も記していませんが、彼女は思わぬ結末に驚き感動しながら「死ぬべきこの身がイエス様によって救われた」ことの喜びに満たされ、イエス様の「今後はもう罪をおかさないように」との言葉を胸に刻みながら帰って行ったでしょう。人は審きよりも赦しによって、その罪の深さを知り、悔い改めは罰を与えるより、愛と赦しの中で深められて行くと思います。この一人の女性は、イエス様の赦しと励ましの中で罪から解放され、新しい真実な道を歩む者とされたのです。
最後に、今日のテキストから、私たちクリスチャンとはどういう者かということを考えさせられます。それは、世間の人に比べて多少は善良で道徳的、良い人間というようなものではありません。そういう意味では、クリスチャンは世間の人々と何の違いもありません。ただ、クリスチャンとはこの罪の女性と同様に、全ての人が立ち去った後にも何故か主イエスのもとに留まる者のことなのです。様々罪に汚れた泥まみれの姿のままでもイエス様のもとから離れず、しがみついている者、イエス様から罪の赦しの言葉を聞き、十字架の贖いによって救われる者、それがクリスチャンです。毎週、礼拝するのはそのためです。
<赦されて生きる>それは、この女性だけではない、私たち全てです。私たちは知らずに多くの人を傷つけて生きています。自分では一生懸命愛し、奉仕しているつもりが、相手にとっては自由を奪う強制としか思われないこともあります。私たちは、本当に相手の心を理解できないし、自分のことも分かっているつもりで分かっていません。あのイエス様の「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです。」この十字架上の執り成しの祈りは、時代を越えた全人類への執り成しの祈りであり、私たち一人一人の執り成しの祈りです。私たちは皆、イエス様の十字架の赦しの中で生きて行けるのです。