隣人を自分のように

                                              牧師 亀井 周二

マルコによる福音書 12章28〜34節

28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

今回は、二つの愛の戒めの第二「隣人を自分のように愛しなさい。」についてご一緒に考えてみたいと思います。

<何故、全人類でなく隣人なのか>

 イエス様は、なぜここで〈人類〉と言わずに〈隣り人〉という表現を使われたのでしょうか。有名な小説家ドストエフスキーは、「祖国を愛するとか、人類を愛するとかいう崇高な理念のために涙を流さんばかりに感動している人間が、目の前にいる一人のお婆さんを、鼻をぐずぐずさせてうるさい、というだけの理由で憎む。」と大変厳しく、また真実に人間の姿を指摘しています。

 〈世界平和〉とか〈全人類の救済〉というスローガンは美しいけれど、それは一つの言葉に過ぎません。私たちは、そのような美しいスローガンを飽きるほど聞いていますが、世界平和はなかなかやってこないのです。私たちには全世界、全人類などというカッコイイ言葉は必要ありません。もっと極めて日常的な生活の中でまず身近にいる〈隣り人〉を愛していくこと、一人の〈隣り人〉への小さな愛の行為から全世界の平和は始まるのです。
 自分の身近な隣人を、家族を、愛することの出来ない者が、どうして世界平和を実現できるでしょうか。そのように考えていくとイエス様が「隣り人を愛しなさい」と言われたことの深い意味が分かるのです。

<隣人についてーサマリヤ人のたとえから>

 隣り人について、ルカ1025節以下の良きサマリヤ人のたとえから学びたいと思います。29節に「しかし、彼は自分を正当化しようとして『では、わたしの隣人とはだれですか』」とあります。この問いの背後に、隣人とはこれこれの範囲の人々であると、愛さなければならない自分の責任の範囲を出来るだけ狭くしたい、という気持ちを読み取ることが出来ます。ユダヤ人にとって隣人とは同じユダヤ人か、ユダヤ教に改宗した異邦人でした。そのような律法学者に対して、イエス様は30節以下で、有名な良きサマリヤ人のたとえを語られます。

このたとえの中で、サマリヤ人より前にこの場を通りかかった祭司とレビ人とは、強盗に襲われた人と同国人であるので、隣り人と言える人たちです。しかも、祭司もレビ人も共に神殿に奉仕する職であるので、他の人以上に聖書を知っていました。ですから当然、申命記の神への愛についても、レビ記の隣人愛についての聖句も知っていたでしょう。彼らは、誰よりも真っ先に強盗に襲われた人を助けなければならない人たちでした。

ところが、彼らは強盗に襲われた人を見捨てました。そして、遠い人である、しかもユダヤ人とは敵対関係にあったサマリヤ人が、親切に傷の手当てをした上に、宿まで運んで宿賃まで払ったのです。彼の親切は、どうしても必要な最小限度のことはする、という消極的なものではなく、必要以上に積極的な親切でした。

このたとえが終わった後に、イエス様は質問した律法学者に「誰が隣人になったと思うか」と問い返しておられます。「隣り人とはだれですか」という問いに対して「誰が隣り人になったか」という問いを持って答えておられるところにイエス様の隣人愛に対する素晴らしい理解が隠されていると思われます。

このたとえ話は「私の隣り人とはだれですか」という問いに対して、あなたの隣り人とはこれこれの範囲の人だ、という具体的な答えは与えていません。むしろ、質問者の心の向いている方向とは違う方向に向かって考えることを示唆しています。それは〈隣人になる〉という言葉にポイントがあります。

「隣人とは誰か」と問うのは、愛さねばならぬ責任の範囲を出来るだけ狭くしたいという気持ちがあるからです。イエス様はその問いにはまともに答えずに、別の方向を示して答えられています。それは、隣人の範囲を限定したいと思っている、律法学者の消極的な思いに対する否、です。イエス様は、誰でも、誰に対しても隣人になりなさいと言われます。そう、全ての人が隣人なのです。

<隣人はふいに>

サマリヤ人のたとえから隣人愛について考えられること
@ 隣人との出会いは、日常生活の中で突然やって来ます。サマリヤ人は旅の途中で、この強盗に襲われたユダヤ人と出会ったのです。
「隣人を自分のように愛する」とは、さあ、自分のためにやることはやった、心のまた時間の余裕が出来た、困った人が来たら助けてあげられる、という形ではやって来ません。むしろ、私の経験から言うと、余裕のある時より余裕の無い時、ふいに助けの必要な隣人との出会いがやって来ることが多いのです。

A 自分の生活、自分の安全を確保しながら隣人と出会い、助けるのではありません。
あのサマリヤ人が、強盗に襲われた人を助ける時に、また再び岩陰に隠れた強盗が今度はサマリヤ人を襲うかもしれないのです。実際、そのようなことが当時はあったようです。
愛する、ということは犠牲が伴うことですし、時として自分の命をかけなければならない時もあります。

<自分のように愛する>

「隣人を自分のように愛しなさい」という〈自分のように〉という言葉を考えてみたいと思います。

 私たちは、しばしばこの言葉を自分の都合の良いように解釈する、というか誤解をします。「自分のように愛しなさい」ということは、自分を愛することは否定されていない。さすがイエス様だ、イエス様は私たち人間の限界を良く知っておられる。〈自分を愛さないで、隣人を愛しなさい〉と言われたら言葉としては美しいけれど、絵に描いた餅で行うことは出来ない。なぜなら私たちはみんな、自分ほど可愛い大切なものは無いと思っているからだ、だからイエス様は、自分を愛してそして次に隣人を愛しなさいと言われるんだ、と。もし、そのように考えるとしたら、それはイエス様の思いと大きくずれてしまいます。

 イエス様は私たちにこう示されています。?〈自分のように〉とは、あなたは自分の命、存在が愛おしく、何よりも大切だと思っている、しかし、忘れてならないのは、あなたが自分のことをそのように愛しているように、あなたの隣り人も自分の事をそう思っているよ、自分の命を何よりも大切だと思っているよ。そして、この私(イエス様)はあなたも、あなたの隣人も、またあなたたちがあのサマリヤ人のように敵だと思っている人も同じように愛しているよ。私には敵なんていない、みんな愛する隣人だ。?そのことをイエス様は、あの十字架上の祈りで示されたのです。

<イエス様の愛の戒めの独自性について>

 「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、表現は違いますが、古今東西、イエス様以外の多くの人が言っています。しかし、その隣人概念の広さ、深さはイエス様に勝るものはありません。

 イエス様にとっては、ユダヤ人もサマリヤ人も、富める青年も貧しいホームレスも、敵も味方も、禁欲主義者も、売春婦と呼ばれる女性も、取税人も熱心党員も全て隣り人でした。イエス様の語る神様はマタイ5:45Bにあるように「悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせる」神様なのです。

 イエス様の語る隣人愛はそのような広さと同時に深さもあります。マタイ18:21以下の兄弟の罪に対して、七を七十倍するまで許すこと、それは7の490回までは許して491回目からは許す必要がない、というのではなく無制限に完全に許せ、ということなのです。

 しかし、私たちはこの素晴らしい隣人愛をどうしたら自分のものにすることができるのでしょうか。私たちは敵どころか、味方、いや自分の家族ですら愛することが出来ないのではないでしょうか

 右の頬を打たれたら左の頬を向けるどころか、右の頬を打たれたら相手の右の頬だけでなく、隙あらば左の頬も、打たないと気が済まないのではないでしょうか。

 イエス様の語られる愛の素晴らしさは、広さ深さを知れば知るほど、だんだん自分の現実から離れていくように思えます。では、私たちはどうすれば良いのでしょう。絶望するだけなのでしょうか。

デンマークの哲学者キルケゴールは「愛の命の摂理」の中で「あなたを忘れてどうして正しく愛について語ることが出来ましょう。愛なる神よ、天上と地上の全ての愛はあなた故に由来します。おおよそ、愛する者はあなたの中に生きて、初めて愛する者となることが出来ます!あなたを忘れてどうして正しく愛について語ることが出来ましょう。愛の何であるかを啓示せられた神よ!我らの救い主にしてまた和解の主なる神、万人の罪を解くために自らの命を捨てて惜しまぬあなたを忘れて、どうして正しく愛を語ることが出来ましょう!」と祈っています。

イエス様の愛の戒めの真に決定的な独自性は、実に、戒めを与えられたイエス様ご自身が、自ら命をかけてそれを実行されたことにあります。彼こそ真に、神と隣人への愛を行われた唯一人のお方なのです。彼こそ真に、神の意志としての律法を守りきった唯一人のお方なのです。

<十字架の上から>

 あのルカ23:34の十字架上での叫び「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」で、敵をも隣人としなさい、と言われたイエス様ご自身が自分を殺そうとしている者達を、隣人として愛し、彼らの罪の赦しを神様に祈っておられるのです。ここに、隣人愛の究極の姿を私たちは見ます。そして、この執り成しの祈りが、じつは私たち一人一人への祈りであることを知る時に、私たちもイエス様の語られる隣人愛に生きてゆくことが出来るのです。

 イエス様の十字架の愛によって、罪赦され、愛されていることを知る時、私たちもイエス様の故に真の愛に生きることが出来るのです。私たちの神様への愛と、隣人への愛の前に、神様の私たち人間への愛があります。全てはここから始まるのです。

 私たちが神様を、全身全霊で心から愛し、隣り人を自分のように愛するのは、どうどうなるが故の、つまり条件的な愛「私を愛してくれるから私も愛する」ではなく、何々にもかかわらず愛する、つまり「愛されるに値しないのにもかかわらず愛する」という神様の無条件的な愛に対する感謝の応答なのです。