28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなか
<ユダヤ人における律法の位置>
ある時、一人の律法学者がイエス様の所に進み出て「あらゆる掟のうちで、どれが一番でしょうか。」と尋ねました。「あらゆる掟」とは十戒を代表とする旧約聖書の中の律法だけでなく旧約聖書全て、そして、口で伝えられた口伝律法「タルムード」等、ユダヤ社会の全ての律法、掟のことです。
ユダヤ人にとって掟、つまり律法は誕生から死、ゆりかごから墓場に至るまで彼らを支配するものでした。ユダヤの民の真の指導者は、ユダヤを占領していたローマの総督でもなければ、ユダヤの王、ヘロデや首都エルサレムにある神殿の大祭司でもなく、ユダヤ全土にあるシナゴーグ(会堂)で律法を説く律法学者たちでした。彼らは、単に宗教家であるだけでなく、教育者、裁判官、政治家でもあり、ユダヤ社会の精神的指導者でした。
<イエス様の律法解釈>
このような律法に対してイエス様はどのような態度をとられたのでしょうか。それは、私たちにとって驚くような態度です。ここでは数ある律法の中でも重んじられた食物規定と安息日の規定について見てみたいと思います。
<食物規定について>
マルコ福音書2章15節以下を見ますと、イエス様が徴税人や罪人たちと食を共にしていることに対して律法学者たちが批判しています。批判の原因は律法の中の食物規定の違反です。例えば、ルカ福音書19章に出てくるザアカイのような徴税人は、ローマ兵の兵舎や街の社交場で、また自宅でもローマの将校達とたびたび食事をしていて、その料理が律法の食物規定に従って出されたとはまず考えられません。旧約聖書、レビ記11章の律法の規定によれば「ひずめが分かれていないもの」「反芻しないもの」「ひれ、鱗のないもの」は全て汚れた食物です。つまり日本人の大好きなトンカツやウナギの蒲焼きは汚れた食物になるのです。イエス様はそのような食物規定に対して、実に大胆な発言をなさっています。マルコ7:15で「外から入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出てくるものが人を汚すのである。」「つまり人の心から悪い思いが出てくる」と、食物のどれが清いとか、汚れているとか気にかけるより、自分自身の中にある汚れ、罪を考えるべきだと主張されました。
<安息日の規定について>
先ほど言いました、口伝律法(タルムード)の中には安息日にしてはならない仕事が39あげられています。その中には安息日に歩ける距離とか、火を点けること種を蒔くことの禁止などがあります。更に、今日の私たちから見れば滑稽とも思われますが、当時の律法学者達の間では、安息日に鶏が産んだ卵は汚れているか、清いか、真剣に論議されたそうです。
そのように重要視されていた安息日の規定に対して、福音書のいたる所でイエス様が安息日の規定を破っておられるのを見い出します。マルコ3:1 以下では片手の不自由な男の人を、ルカ13:10以下では18年間病気で体の曲がった女の人を、ヨハネ伝5章では38年間足が不自由だった人を。これらの人々を癒したのは全て安息日でした。安息日には、生命の危険が生じる緊急の治療以外は禁止されています。イエス様の行為を非難する律法学者達に対して、イエス様はマルコ2:27で「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と、マルコ3:4で「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と言われ、当時の律法学者達の律法主義、形式主義を批判されました。
このようなイエス様の大胆で自由な態度は、ユダヤ社会の秩序を乱すものとされ、律法学者たちの反感、憎しみを買いイエス様を最後は十字架へと不可避的に導くのです。
<イエス様の自由の出発点>
さて、このようなイエス様の大胆で自由な態度は、一体どこから出てくるのでしょうか。その出発点、原点が今日の聖書マルコ12:28〜34にあります。律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」との問いに対してイエス様は「第一の掟はこれである。『イスラエルよ聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに勝る掟はほかにない。」と応えられます。
イエス様は莫大な量の律法の中で、この二つの律法に全ての律法の中心を見いだされたのです。短く言うならば、全身全霊で唯一の神様を愛すること、次に隣人を自分のように愛すること、この神と隣人への愛に、全ての律法の中心を置かれ、他の様々な律法を相対化されたのです。第一の掟は、旧約聖書、申命記6:4〜5の引用で、第二の掟は同じく旧約、レビ記19:18からの引用です。イエス様は別々の所にあったこの二つの愛の掟を一つに結びつけられ、そこに中心を置かれました。
食物、安息日、断食、清め、割礼などの全ての祭儀的、形式的な律法が相対化されるのです。だから、イエス様は隣人愛の故に、食物規定を守っていない徴税人や罪人と友となって食事を共にし、安息日に様々な病人を癒されるのです。
<形式主義からの解放>
そのようなイエス様の愛の律法の絶対的要求は、安息日や食物規定の細かい様々な律法を「何故、守るのか」と目的を問わず、ひたすら「いかに守るか」という方法論、形式にこだわって、必死で守ることで神様からの祝福を得ようとする、誤った形式的律法主義に対する拒否を意味するのです。神様は公式化された律法の範囲だけで人間に服従を要求されるのではありません。律法によって捉えられるような殺人、姦淫、偽証だけが神様に禁じられているのではなく、怒り、罵り、よこしまな情欲、不真実が禁じられているのです。山上の説教でイエス様は兄弟に「バカ」「愚か者」と言う者は、厳しい神の裁きに会うと、人の心の内面性を厳しく問われます。イエス様は、その当時の化石化した律法主義は否定しましたが、神様の意志、御心を表す真の律法を、神様と隣人への二つの愛の中に集中し確立されたのです。
<いかに(方法、手段)よりも何故(目的、意味)を>
安息日の本来の意味、それは第一の掟の少し前の申命記5:12以下と、出エジプト記20:8以下で示されるように、神様の天地創造の業と出エジプトの救いの業に対する感謝、応答として、神様を礼拝し、神様への愛を示すための安息の日なのです。しかし、当時の律法学者たちはその本来の意味、目的、何故、何のために安息日を守るのか、ということよりも、いかに守るか、その方法、手段、その形式を整えることに重点が移り、その結果、神様の業よりも人間の業を、つまり自分たちがどれほど律法を守っているか、という自己主張に陥ってしまったのです。愛は本来、公式化、形式化出来ないものです。愛は、その置かれた状況、環境によって異なります。同じ事、同じ行為がある時、ある相手には愛の業となっても、違った相手には傷つけることになる場合もあります。律法学者たちの誤りは、神への愛と隣人への愛を規則、形式の枠の中に閉じ込めたことにあります。
私たちも、ともすれば彼らと同じ誤りを犯す危険があります。礼拝も奉仕も献金もその目的を問うことを忘れ、形式主義に陥ってはいないだろうか。そして、重点が神様の業から己の業に移り、「私はこれだけ一生懸命守っている。しかし、あの人達は何だ、けしからん。」と自己を誇り、信仰が他者批判の道具になってはいないだろうか。
私たちは絶えず「如何に」と方法を問う前に「何故」と目的を問うていかなければなりません。
・何故、神様を「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」全身全霊で愛するのでしょうか。
答、神様が私たち人間を罪から救うために、独り子イエス・キリストを十字架に付けられた、それほどに私たち一人一人を愛されたからです。
・何故、忙しく、疲れているにもかかわらず毎週、礼拝に出席するのでしょうか。
答、献金は献身の一つの形です。イエス・キリストの十字架における献身への感謝の応答として、私たちも献身の心を持ちつつ、キリストの体なる教会を財政的に支えるのです。・・・協会の会費とは目的が違います。
・何故、隣人を愛するのですか。それも、家族、友人、同胞ならともかく、敵まで愛さなければならないのは何故ですか。
答、イエス様は、十字架上で自分を十字架につけた者たちに対して「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成しの祈りをされ、私たちが敵と思う者をも隣り人として愛されたからです。
<人生の目的>
この世において、私たちは一国民、一市民、一社会人、一会員、一家族と、様々な社会の集団の中で平和と秩序を守るために色々な律法、法、規則を持って守らなければなりません。しかし、それらの法や規則がともすれば本来の意味、目的を失った形式主義に陥ってしまう危険が絶えずあります。あのイエス様から批判された律法学者たちのようになってしまうのです。イエス様は「安息日は人のためにあるもので安息日のために人があるのではない」と言われましたが、同じように法や規則が人を生かすより殺すことになってしまうのです。そのような危険に陥らないために、私たちは「何故」という目的、本質を問う視点を忘れてはなりません。
私たち全ての人間にとって一番大切で永遠の掟、法は、イエス様が示されたように神様と隣人を愛する、この二つの愛の律法です。 私たちはこの世に生きて色々様々な行為をします。しかし、人生の目的は同じです。その一つ一つの業、行為が、神様を愛し、隣人を愛することなのかどうか、絶えず神に前で祈りつつ問い続けていくのです。
あなたの人生の目的は、と聞かれたならば、例え、愛のない自分と知っていても、イエス様、私に愛を与えて下さいと祈りつつ、私たちは勇気を持って神様と隣り人を愛することです、と答えたいと思います。